日本語についていくつか

▼敬語の効能について

敬語で文章を書くと、なんとなく「にんげんが理解できるように書かなくては」という気持ちが湧いてくるので便利です。私の場合、誰かに何かを伝えようとする (コミュニケーションする) と意味不明な感じになってしまって、そのまま流れで「別に意味不明でもいいや」とか投げやりな感じになってしまうので、敬語ってすごいなと思います。

以上、敬語の効能についてのお話でした。

▼「にんげん」表記について

それはそうと、私は人類のことを「にんげん」とひらがなで呼んでしまう癖があるというか、なんか傾向としてそういうところがあります。これは私の肉声を聞いてもらってもあーやっぱりわからないのかなーと今瞬時に思いました。自己完結しました。説明しますと、いま本当は「私の肉声を聞いてもらえばわかります」と言いたかったのですが、途中で「やっぱわかんねえなこれ」と思ってギリギリで回避しました。話を戻します。

私が人類のことを「にんげん」と呼んでしまうのは、実際に声を出して / ningen / と発音をしても、ひらがな的な響きにしかならないようになってしまったからです。理由はいくつか思い浮かびますが、私が自分のことをにんげんだと思っていないところがいちばん大きな部分としてあるかなと思います。だからと言って神ではなく、ただのヒューマンです。

/ ningen / と発音しても、頭のなかで「人」と「間」という漢字とが結びついてくれないのはなかなかつらいところがあります。理解として無機質になるし、かといって「ニンゲン」とカタカナの表記をする気分にもなれません。失語症あるいは失読症みたいなものを疑ったのですが、まったく詳しくないのでよくわかりませんでした。専門機関にかかるのも面倒くさいし、別に今のところ「Twitterで本来は2文字で済むところを4文字も使わなければいけない」という点以外では特段困っていないので、放置しています。

たぶん、それを概念としてまったく理解ができないので「にんげん」という発音・書き方しかできなくなってしまったのだろうなと思います。「人」とか「人類」とかはそれなりにだいじょうぶなのに、どうしてこうなってしまったのか自分でもよくわかりません。わかっていたら直してます。

以上、「にんげん」表記についてのお話でした。

月と隕石

実際のところ、こういうふうに毎日張り切って文章を書こうといった試みはよろしくないのではないかと思いました。多くの場合は失敗に終わりますし、にんげんが頑張りすぎるとなぜか猫に救いを求めてしまいます。無闇に猫の負担を増やすのもよくないので、そのあたりしっかりと気を配っていきたいところです。

ふとした拍子に空を見上げてみたら、ああ、世界ってそれなりに美しいんだなとか思いました。そろそろ年齢的に際どいところに来てしまったのかもしれません。そんな私みたいに、どれだけ心の荒んでしまった人でも、たぶん小学生時代には「将来なりたいもの〜」とかあったと思うんですが、私がなりたかったのは月です。宇宙飛行士でも月面に立つ人でもなく月です。我ながらずいぶんと大きく出たなといった感想を抱きますが、月になりたかったのだからどうしようもないです。大目に見てやってください。

それに、小学生の私は天動説的な世界観を地で行く子供だったので、月の周りには星たちがキラキラ散りばめられていると信じていました。なんか馬鹿っぽいので、この話はここらで切り上げさせていただきたく存じ上げます。

昔はよく流星群を見に行ったりしていたのですが、最近はめっきりとなっています(どうでも良いこと:私は「めっきり」という言葉が好きです)(めっきり!)(ここで流星群の原理を説明することもできるのですが、面倒くさいしこれ以上文章が長くなるのが嫌なのでそのあたりは自分で調べてください)(半分眠ったまま夜空を眺めているとたまに大きめのが流れて、そいつは火球とか呼ばれていたと思うのですが、まあ隕石みたいなものです)

多くのにんげんは関心を払わないと思うのですが、月には隕石が降り注ぎます。しかも月には大気がないので、表面にモロにダメージを受けます。逆に言えば地球は大気という名のやんわりとしたガードを持っているので、大気との摩擦か何かで隕石やらごみやらが燃えて、流れ星となって地表まで辿り着かないことが多いし光ってわあ綺麗みたいな感じになります。でも月には大気がありませんので、隕石は光らないし、ただ表面にズゴズゴ落ちてきて痛いみたいな感じになります。

そういう意味で、月はあまりにつらいです。クレーターたくさんできるし、隕石かなり痛いので宇宙空間に浮かんでいるだけでこわいみたいな気分になります。ところで、いま私は、かなり微妙な話をしています。一種の寓話というかメタファーの話をしています。私は月になりたかったですというお話です。大気を持っていない月は大変だよなというお話です。隕石かなり痛いよなというお話です。

だんだん書くの疲れてきています、がんばります。

あまりがんばりたくないです。隕石ズゴズゴ当たってくるの痛いです。月に衝突した隕石は、その後どうなるんだろうとか気になります。隕石は月の含有成分とは違うものを持っているかもしれないので、となると、単に痛いだけではなく、何かしらの新奇物を持ち込んでくれる可能性もあるわけです。が、痛いです。痛いとはいえ、月としては「これはいったいどこまで耐えればいいのか」とつらくなりながら、ただただ浮いているしかありません。真っ二つに割れてしまうレベルの巨大隕石が到来しないのを祈っています。

そろそろ疲れたので、書くのをやめます。

それではまたあした。

さばのみそに

案外、自分はにんげんの話を聞いているのが好きらしいことを知りました。

ところで、リップクリームとスティックのりを並べて置くことほど危険な行為はないと先ほどわかりました。唇にスティックのりを塗ると、まったく会話をすることができなくなってしまいます。もしあなたの家に口うるさいオカン・姉妹・お嫁さまがいるなら、ぜひとも試してみてほしい方法です。化粧ポーチを無断で開けてスティックのりを忍ばせておくのもアリだと思います。もろもろがんばってください。

近ごろ鼻がやたらとつまります。しかもなんだか、夜が更けてくるとそうなることが多いです。そういう体質みたいです。別にいいのですが、これの困るポイントは、歯磨きをシャカシャカしているときにまったく呼吸ができなくなるので、少しつらくなるみたいなところがあるところです。顔面に配置されたメインの穴たちが塞がれてしまいますので、空気の出るところ入るところがなくなってしまいます。皮膚呼吸で乗り切っています。

今日のごはんは「焼いた鶏肉とバジルがふんだんに使われたトマトのスパゲッティ」でした。鯖の味噌煮ではないです。ここでタイトルを回収したので、あとの文章は私の気の赴くまま、適当に進めさせていただきます。

とはいえ、あまり話をすることがありません。案外、私は自分自身が書くことよりも、他のにんげんの書いた文章を読んでいるほうが好きらしいことを知りました。それはひとつ大きな収穫でもあったのですが、書くことが好きな私は、少しかなしい気持ちにもなりました。これは少し矛盾っぽくもありますが、矛盾ではないです。若干ですが盾のほうが強いので、矛がギリギリで負けます。そういうことです。

しかし、かなしんでいたってしょうがないので、私はこれを書いています。たぶんこの世界には、私みたいなのと同じように、他のにんげんの書いた文章を読むのが好きなにんげんというのがいるのだろうと信じるからです。

一種の、気休めみたいなものです。とか言いつつ、しばらく、十数分ほど「気休めみたいなもの」の一例について考えてみたのですが、まったく思いつきませんでした。無能であることはこわいですが、自らの無能さに気付いていないこともこわいと思います。念のため付け加えておくと、私は自分が無能であると指摘しているわけではありません。また、自らの無能さに気が付いていないというわけでもないです。

とまあ、こんなふうに、読んでいる人を煙に巻くような、ふわっとした文章を書く能力があるし、得意みたいなところがあります。だからあながち無能でもないみたいです。

最後にひとつだけ言っておきたいことがあるのですが、にんげんって、つらくても苦しくても、生きていればなんかぽつぽつと良いことが起こるみたいです。でも、やっぱり、そのあたりの均衡を保つことがいちばん難しいというか、最難関というか、それが人生みたいなところがあります。

当然のように、放っておけばつらさの総和のほうが勝ってしまうと思うのですが、そこをどう力技で乗り切っていくのかみたいな話です。刻苦勉励して金を集めてあとは物理で殴るみたいなこともできますし、そのへんに落ちているものを拾ったりとか、あとは自分から遠くに出向いて採りに行くとか、そういうこともできます。山菜摘みとか、雉狩りみたいな感じです。割りかし自由度が高いので、他人が所有しているしあわせを奪ったりすることもできます。でもそういうことをすると、最終的には不幸になる気がします。奪い合ったり争ったりは、たとえかわいい女の子たちがキャッキャしていてもドロドロ醜い感じになるので、仲良くシェアしてください。

幸福のオープンソース化はいつになったら為されるのかと考えますが、なかなか難しいのでしょうなとか思います。「幸福」という言葉だけで胡散臭さを感じるようになってしまったのは、たぶん科学を標榜する某宗教団体のせいだと思います。こういうふうに、何かしらの概念に向かってつらみを投げつけるのもアリだと思います。個人とかの小さい単位ではなく、なるべく器が大きそうで食らってもダメージが無さそうなものに向かって投げつけるのがコツです。

私はつらい気持ちになると、しきりに「てーきあつのせいだ! てーきあつのせいだ!」と叫び出しますが、けっして気が狂ったわけではありません。そういう処世術です。「つらい気持ちになるのは低気圧のせいなのだ」と思い込むことによって、今日もなんとか生きながらえているみたいなところがあります。ちなみに日本列島が高気圧の覆われている日につらくなったらもうどうしようもないので寝ています。

そろそろ長くなってきたので、書くのをやめます。

以上、さばのみそにでした。

これから

 わたしはこれからどうすればいいのか。

 あまり考えたくないけど考えなければいけないよなあと思いつつ、やっぱりなにも考えたくない。ちなみに書くことができない。あれだけ好きだった、書くことができない。これはわたしにとって、かなり重大なことである。こういった断片的なものは書くことはできるのだけど、まとまった文章というものをまったく書けなくなってしまった。

 インプットが足りていないということはわかる。今までは蓄えていた食料を食いつぶしていただけで、まあそれでなんとかやっていけていたのだけれど、入ってくるものよりも出ていくもののほうが圧倒的に多かった。倉庫に備蓄を増やそうとまったくしてこなかった。

 否、それさえもできないほど精神的に落ち込んでいた。

 だとすれば、インプットをできるようにするのがまず先決なのだろう。しかしながら、いったいどうやって? わたしはいったいこれからどうしていけば、それを成し遂げられるのかまったくわからない。休めばいいのか? だったら休むけど、いったいいつになったら書けるようになるんだろう。もうずいぶん休んだ気がするのだけれど。

 いったい、いつになったら?

 状態はだんだんと悪くなっていっているような気がする。物語を消費したいという気持ちはかなり強いのだけれど、どうにもそれを摂取していこうという気力が湧いてくれない。わずかに諦めの気持ちも出てきてしまった。なにも小説を読まなくても、適度にごはんを食べて、たくさん水を飲んでいれば生きていけるし、肉体の維持という点では問題ない。

 でも精神面では? わたしはどうしても書きたいし、読みたいと思ってしまう。難儀な星の上に生まれてきてしまったようだ。書かないと死ぬと思ってしまうし、読まないと死ぬと思ってしまう。そしてそれは、おそらく正しい直感なのだと思う。

 では、だとしたら? だとしたら、わたしはこれからどうすればいいのだろう。とてもありがたいことに、支えてくれる人がいるのでこのさき生きてはいけるんじゃないかと思いはじめた。しかしながら、わたしはその生活で、書くということをしないで暮らしているのだろうか。それはなかなかに想像しがたい。どうなるんだろう。これから、どうなっていくのか、まあなるようにしかならないのだろう。そこにもなんとなく諦めの気持ちがある。わたしはこれから何も書かないのだろうか。

 まあ、たぶん書いている。書いてはいるんだろうけど、たぶん今とは少しちがった形になっているんじゃないかなとは思う。未来のことはよくわからない。あらゆる選択肢を考えなければならない。もっと視野を広くしていきたい。とりあえずは休みたい。いまのところは休ませてくれ、たのむ。

かつての断片

 僕は誰かがおいしそうに何かを食べているのを見るのが好きだ。

 だから食事中の人間を見つけたら、気付かれないようにこっそりと、無意識のうちに観察していたりする。

 僕は誰かがそのおおきな口で頬張り、咀嚼し、飲み下すのを見るのが好きだ。

 誰かと一緒に食事をするのが好きだ。でも会話をしながら食事をすることだけはずっと苦手だった。摂食のしあわせを分かち合うのに、会話というものは必要ないと思っていた。僕らはただ黙々と食べ続け、無言のうちに食べ終えればいい。たまにほんのちょっと見つめ合う時間があって、それで笑顔を交わし合えればそれでいい。

 けどやっぱりそれだけだと味気ないから、「おいしいね」みたいなことを言ったり、それに対して「うん」と返答したりする程度の会話はあったほうがいい気もする。でもそれ以外は食器の立てるカチャカチャという音に耳をすませ、テーブルいっぱいに広げられた料理を、淡々と平らげていくのだ。

 あるいは、長い食事の合間にある小休憩といった感じで、誰かが食べているところをつぶさに観察してみたりもする。誰かがナイフで綺麗に肉を切り取り、フォークで串刺しにしたそれを慎重に口に運ぶさまを見ていたい。そんなことを思う。そこで少し世間話みたいなものが生じるかもしれない。それはそれでありだと思う。

 僕は料理をするのが好きだった。僕の作った料理をあなたが食べてくれて、それで「おいしいね」と言って笑ってくれたら、それでもう充分だった。

「コックさんになればいいかもね」と言われたりもした。

 でもね、ごめんね、ちがうんだ。それはちがうんだよ。ごめんね。僕がやりたかったのはそういうことじゃないんだ。僕がやりたかったのは、厨房で大勢のために調理をして、大勢に一方的に提供するみたいなことじゃないんだ。たくさんのお客さんに「おいしかったよ」って言われたりとか、そういうのじゃないんだ。そういうあたたかみじゃないんだ。ただひとり、あなたがただ食べてくれさえすれば、本当にそれで──。

 そんなことを、ひとりさみしく食事をしながら思いました。

ご報告

 謹んで新年のお祝いを申し上げます。

 えー、正月早々、2015年にもなって、ブレーカーが落ちただけで先ほどまで長々と書いていた記事が消えるというのは、ぼくたちが思い描いていた未来に対して怒り心頭に発すといったところではありますが、アニメ・エヴァンゲリオンにおける使徒襲来が今年であることを鑑みると、あの汎用人型決戦兵器でさえアンビリカルケーブルの接続が断たれれば活動限界が訪れるのであり、しかしながら予備電源に切り替わらずに突如としてブラックアウトするというのは本当にいかがなものか。

 とまあ、そんなことを言っては怒りを向けられた未来のほうも困惑するというところではありましょうが、なんというか、いろいろ書いたのですが消えてしまったので、現在の処遇について述べることは、再び書くのはめんどくさいという理由で今のところは差し控えさせていただきたく存じ上げ奉ります。なんか正月早々(?)めでたくないことばかり書いていたので。

 今月の十三日水曜日に進退が決定する運びとはなっておりますが、当の本人にもよくわかっていません。

 とりあえずは生きています。