現状の把握

 何をするでもなく、何もない日々を過ごしている。

 最近は薬が安定しておらず、起床後もかなり眠気が残っている。日中はほとんどまどろんでいて、まともに活動ができていない。

 では、眠気さえなければ、何か行動を起こせるのか。

 もちろんそんなことはない。眠気はむしろ救いだ。寝ているあいだは、つらいことを考えずに済むから。

 問題はオーバースリープによる頭痛だが、目の前に立ち塞がっている虚無と比べたら、なんてことはない。

 ここから脱出するにはどうすればいいのか、そればかりを考えている。

 

 

 私は信じているのだが、私は何かを書くことによって救われるのではないか?

 この仮説を確かなものとして突き立てるには、ただひたすらに書くしかない。しかし、それがまったくできないという体たらく。

 そうだ、気分転換に外に出て書いてみよう。きっとこの家だからダメなのだ。

 そう思って、出先で書くための道具を集めてみる。まっさらなノートを買う。ぴかぴかのペンも用意する。安物だが、ノートパソコンなんてものを購入してみた。精密機器なので、安全に持ち運ぶための容れ物も必要だ。

 そういった道具を集めて、カフェまで足を運んでみる。

 断言できるのだが、書くことというのは、このように上辺さえ整えればできるようなものではない。

 そしてダメなときの私は、こういうことも考えはじめる──「ああ、このヤクザなノートパソコンではダメだ。私はいつも自宅でMacを使って書いているから、その環境をほとんどそっくりそのまま持ち運びできる、あの洗練されたMacBookを買わなければ、私はこのままでは、外で文章を書くことが一生できない」──ちがう、大事な部分はそこではない。

 書くことができないのは、道具のせいではない。

 

 

 私がある病院に3ヶ月ほど入院していた時、院内に情報端末を持ち込むのはNGだった。

 パソコン、ダメ、スマートフォン、ダメ。私は主にこういった文明の利器を使って文章を書いていたので、「まったく仕方ないなあ、退院するまで休業だ」などと考えていたのだが、数日も保たずに発狂し、売店で適当なノートとペンを選んでごりごり書いた。

 今になって考えると、驚くべきことである。

 実を言うと私は、その頃にはもう精神的にボロボロで、気力も湧かず、ほとんど何も書けなくなっていた。そのはずだ。それなのに、何冊もノートを買って、隅から隅の空白という空白を埋め尽くしたのは、まったく気が狂っていたとしか言い様がない。

 何が私をあそこまで駆り立てたのか。

 案外、狂気の中にいたのはその時の私で、今が正常なのかもしれない。

 

 

 私は昔から物語を愛していたが、小説よりはむしろ漫画が好きだった。

 最近では、人間の肉体が、物理的に引き裂かれ、無慈悲に死んでいく作品ばかり読むようになった。そこでは人間が、文字通り無慈悲に死んでいく。人間死すべし、慈悲はない。丁寧な描写がおこなわれる死体もあれば、ぽっと出てぽっと死体になる時もある。

 私はそれを見て、少しだけ安心してしまう。

 よかったと思う。その漫画の世界で死にいくものたちには、多くの場合はっきりと目に見える外傷があって、致命的に流血している。肉が直接えぐられていることが多い。死因は内部ではなく外部にあって、説明の余地はそれ以外にない。その人物がなぜ死ななければならなかったのかについて納得が得られなかったとしても、どういう仕組みで死んだのか、周囲を説得する必要がない。そういう風に、とてもわかりやすく、死んでいくから、私の魂は救われて、浄化されるような気持ちになることさえある。

 

 

 走るのが好きだった。

 受験期に、運動不足を解消するために走った。勉強から離れて、頭をからっぽにできるのがよかった。その習慣は趣味となり、大学に受かってからも続き、それなりに長距離も走れるようになってきた。

 そして私は、チャリティで開かれるハーフマラソンの大会に、参加申し込みをした。
 その時に出場するのはハーフだったが、いずれはフルに出たいと思っていた(こういう時に発揮される私特有の謎の向上心である)。まず、42.195キロを走破するには、単純に距離を走れるだけでは難しい。普段のトレーニングから、もっと身体に負荷をかけて、もっとタフにならなければならない。

 しかし私は、練習に力を入れすぎるあまりに、膝を痛めてしまった。

 しばらくまともに歩けなくなるくらいだったので、状態はかなり悪かったのだろう。医者にレントゲンを撮られ、「炎症が起きている」と言われたが、素人の意見からすると「ただの炎症でここまで痛くなるか?」とやけに懐疑的だった。

 というわけで、練習のスケジュールまで組んで、自分なりに準備をして、それなりに楽しみにしていたマラソン大会への参加は見送ることになった。

 それから私は、走ることをやめた。

 別に走りたい気持ちがなくなってしまったわけではないのだが、もう二度と走らないような気がしている。

 

来年2016年の抱負の掲示

 適当なところが見当たらず、とりあえずメモしたものをここに掲示しておきますのでよろしかったらご覧ください。

 

  • 耳鼻科に行く(1月15日完了)

 万年花粉症ですが特にスギ花粉がひどく、外に出たくなくなるのであらかじめ対策をしておく。この下地にはアレルギー性鼻炎があると思われるので、そのこともお医者さまに告げて、なんとかできそうならなんとかしてください。

 

  • 整形外科に行く

 かつてジョギングをやっていたときに痛めてしまった左脚(膝の裏)をなんとかしてください。一回ちいさな整形外科に行って治らなかったので、もっとおおきな病院に行くのがいいと思います。

 

  • 運動をする、動ける体力をつける

 まず前提条件として上の「整形外科に行く」をクリアしてください。その上でだいじょうぶそうだったら運動してください。あまり足を使わないような単純な腹筋運動くらいならすぐにやってもいいと思います。

 

  • めんどくさいと思うことから逃げない

 人と会うとか外に出るとか、そういうのめんどくさいなと思ってあんまり逃げて後回しにしないでください。逃げられないので慣れていきましょう。

 

  • いろいろと話ができるようにする(整理する)

 頭のなかでごちゃごちゃになっていることがあって、「話をしてほしい」と言われてもどう話していいのやら途方に暮れてしまって伝えられず、相手方としてもこちらとしてもつらいのでどうにかしてください。「ここから話すと決めておく」とか「順序立てて整理しておく」とかがいいと思います。それ以外でも会話が苦手すぎるのをどうにかしてください。優先度高いです。

 

  • 英語を読むだけではなく使えるようにする

 現状として英語を読むことくらいしかできないのはもったいないです。せめてリスニングくらいはできるようにしてください。それに付随して「書けるようになる」とか「話せるようになる」とか状況に応じて調整していってください。

 

  • 書くことについてもう一度考える

 できたらするような感じでいいです。これについてはわざわざ書き出さなくても放置しておけば勝手にやっているような気もします。

 

  • 手をきれいに保つ

 私の手はきれいらしいので大切にしましょう。

 

  • 良い姿勢を意識する

 猫背がすぎる。

 

  • 職を見つける

 そろそろ働いてください。でも無理はしないでください。ここから更に体調を崩すというのが今いちばんやってはいけないことです。助言を受けるのがいいでしょう。

 

  • インターネットから離れる

 やってもいいけど、あまりやりすぎるのはよくないです。何事も適度にしてください。どうしてもずるずるやってしまって離れられないなら一切やめてください。

 

 

 いそがしい師走も年末ですので取り急ぎ。

 それでは良いお年を。

 

 以上。

 

 

追記:

  • 手洗いうがいをする

 基本です。

何も書くことが出来ないということについて書くということ

 つい最近まで簡単に出来たことはずのことがまったく出来なくなった。

 一言で表すなら、「書けない」。たとえば自分は今ここまで書かれた文章についてすべてが駄目で唾棄されるべきだと思うし、タイトルに関しても何から何までが何がなんだかわからないゴミ要素でしか成り立っていないと思うし、これからの文章も駄文になります。どうぞよろしくお願いします。

 書くことによって前に進むことが出来なくなったというか、まるで危ない綱渡りでもしているみたいで、足がすくんで一歩も前進できない。文章を思い浮かべようとすると心が苦しくなる。なぜかこれから先の自らの生存が危ういとさえ感じる。ジャングルにいる訳でもあるまいに。じりじりとして、そのうち後ろ向きに進んでいるのではないかと思えてきて、もういいやって考えるのをやめる。

 これは冗談じゃないし、笑い話でもない。冗談なら冗談だとどうか言ってほしい。

 控えめに言って、かなり苦痛だ。これが「お前は両脚をもがれたんだよ」とか「両手を持っていかれたんだよ」とかならまだわかる。そのことによって「以前のように自由に歩き回れなくなってしまった」とか「細かいお裁縫が出来なくなった」とかならまだわかる。

 しかし、「書く」だぞ?

 たかが書くことである。しかし、されど書くことなのだなと感じる。

 わたしは書くにあたって必要だった「大切な何か」を失ってしまったのだなと感じる。

 しかしその正体が何であるのか、はっきりと断言することができない。「しまった、歩けなくなっちまったよ」「それはおめえ、脚が失くなってんだ」「合点承知、それじゃあ義足をつけるぜ」「おう、見た目は元通りだ」みたいなことができない。

 なぜなのか。その答えは明快である。〈それ〉は目に見えないものだからだ。しかし肝心な〈それ〉の正体がわからない。精神力か、あるいはやる気か。書くことを歩くことになぞらえて、わたしが失ったものの正体を『文学的脚部』と表現することも出来る。ならば〈それ〉を失ったわたしは文学的義足をつけなければなるまい。

 しかし、どうやって?

 もしくは文学的義足がだめなら、手を使って移動することも出来る。日本に語り継がれる怪談に『てけてけ』というものがある。上半身だけで腕力を使って手を脚のようにシャカシャカと動かして猛然と突き進んでくるのが『てけてけ』である。ならば『文学的てけてけ』になる他あるまい。脚をもがれても猛然と書きまくるんだよ。

 ほらな、こうしてまた意味のわからない文章が作り出される。わたしはもうだめだ。額には脂汗がにじみ、呼吸が苦しくなってくる。何よりも吐き気がものすごい。ただ書いているだけなのに、これでもかと精神が圧迫される。そろそろ本当に命にかかわってくるので書くことをやめる。これは比喩じゃないし、何も大げさには言っていない。本当はまだ書きたい。

 

 この文章は、血の滲むような苦痛の末に生み出されました。

五月終

季節がめぐることについて。一巡することについて。はじまりの象徴としての桜はあまり好きではなかったのに、今ではあの桜が恋しい。どこかに見に行きたい。わたしが求めているときに、あらゆることがいつも手遅れになってしまっている。どうやら何かが終わっていく象徴としての桜は好きなようである。しかしそこで終わるのではない、めぐっていくのだと思うとやはりあのいちめんの春色というものにげんなりしてくる。ということを五月の終わりに書くことについて。もう六月だよ。やあ、おひさしぶりです、次は紫陽花だよ。どうにも紫陽花さんもやっぱり群れているんだよな。しっとりふさふさいちめんの紫陽花なのだよな。その次は向日葵なのかな。やっぱりカラッといちめんの向日葵なんだよな。そうしてめぐりめぐって微々としていろいろが終わっていくのだよな。

書きたいこと

書きたいこと?

そもそも書きたいことなんてあったっけ?

敬語はやめました。っていう敬語を書きました。トートロジーはただ文章を繰り返しているということを語っているのではない。すべてあなたの認識不足だ。ざんねんながら。すべてざんねんです。こちら砂漠のラクダのラクダイくんです。

きみには悪いけれど、世界のだいたいのことに意味はない。わたしには悪いけれど、世界のだいたいのことに意味はない。意味はないと思えば意味はなくなるし、意味があると思えば意味はできあがる。自ら明らかに自明なことだ。この世に生まれてきた意味なんてない。生きていることに意味なんてない。そんなの生まれ落ちたときからわかっていたことでしょ。

だからこそ、何かを為したいなんて願うんだろう。意味がないとしたら、自分で作り出すしかないし、世界はそうなっているんだろう。だから書こうとするし描こうとするし、加工もするし今これを読んでいるし書いているんだろう。

単なる暇つぶしだって言うかもしれない。でも暇つぶしだって十全たる理由だから、それが理由になったら御の字だろう。意味を付与すること、理由付けを行うこと、それは君の持って生まれてきた特権だし、わたしの特権だ。

ある種の解釈では、これは義務めいてもくる。ありがとう、こんにちは、やあおはよう、おつかれさま、さようなら。ただ言われたって、うれしくなんかないだろう。だから言われた自分がうれしくなるように、加工を施すんだろう。

正当化って言われるかもしれない。そんなことを言われたら、かなしくなるのかたのしくなるのかうれしくなるのかそれとも怒るのか、それはまったくわたしたちの自由だ。「ねえほら、きみ、それは完全なる正当化だよ」と言われて、そこにどのような意味を与えるのかはまったくわたしたちの自由だ。かなしくなったっていいし、たのしくなったっていいし、うれしくなったっていいし、でも怒ることはあまりおすすめしないよ疲れるからね。

どうして書きたいだなんて思っていたんでしたっけ。敬語はもうやめました。どうして生きていたいだなんて思っていたんだっけ。気球は勝手に飛んでいくよな。いったい何時頃、たのしいっていう気持ちを忘れてしまったんですか。どうして「どうして」だんなんて考えるようになってしまったんですか。今もまだしあわせですか。「どうして歩いていたんだっけ」なんて考えながら立ち止まっていることは楽しいですか。

「どうして立ち止まっているんだっけ」なんて考えないで歩けよ。いいから歩くんだよ。それがわたしたちの責務だ。「どうして歩いていたんだっけ」なんて長いこと考えていたから立ち止まっているんだよ。最初っから意味なんてなかったよ。

いいから歩くんだよ。書くんだよ。それだけだよ。

たにさわ、2015年4月を振り返る

一所懸命に書いていた文章が消えました。1400文字くらいです。つらいので箇条書きで終わらせたいです。

  • 人生の登場人物が増えました。およそ一名です。大切なひとで、かけがえのない人なので、大切にしていきたいです。
  • アニメとかマンガとか、物語を少しずつ摂取できるようになってきました。小説はまだちょっと厳しそうです。
  • 精神状態がわずかに前向きになったような気がします。風見鶏みたいにくるりんとまではいきませんが、腕力でモアイ像を数ミクロン回転させたくらいの変化があります。今までが変化に乏しすぎて、これだけでも目覚ましいです。
  • 相変わらず外はこわいですが、少しずつ慣れてきました(そもそも元から外はこわいところみたいなところがあります)
  • あと何かもっとたくさん書いていたんだけど、忘れました。

こんな感じです。中でも、登場人物が増えたのが大きい要素としてあると思います。そこからガラリと変わりました。不安もあるでしょうが、良い方向にむかっているのではないかとこちらは勝手に思っています。3年間以上人生に動きがなかったのに、急にぐわっときました。ねえ、3年間も固まっていたにんげんを動かしてくれるのって、とてもすごいことなんだよ。本当にありがとう。感謝の気持ちがあります。ありがとうございます。

そもそもわたしってわたしだったかね?

ちょっと2日ほど意識を失っていました、すみません。その結果としてブログを書けませんでした。申し訳ございません。こういうのって、けっこうよくあることなのであまり気にしなくて平気です。よくあることです。

とはいえ、書くことがほとんどありません。意識を失っていたので、意識を失っていたということくらいしか書くことがありません。にんげん、無理をするのはなんとなくよくないですね。頭痛と吐き気がしますが、あまり気にしないでください。意識を失っていただけです。平気です。

にんげんはにんげんと触れ合うことによって駄目にもなるし、良くもなるのでつらいなと思いました。結局にんげんと関わらないと生きていけないし、だとすればどのようにして正気を保っていくのかが問題とされています。スポイル成分の強いにんげんを遠ざけながら生活をしていかなくては、全身がスポイル成分まみれになって自分の身近なにんげんさえスポイル成分まみれにしかねませんし、そういうのって最悪っぽいです。つらいです。

最近「おまえだれだよ」と思うことが多くなりました。「おまえ」とは、すなわちわたしのことです。わたしがわたしでなくなっていく感覚が強くてつらいです。自己同一性がどうこうという話です。そういう話をわかりてにしてみたら「そういう感じつらいよね」とわかられました。さすがは最強のわかりてだなと思いました。なるほど、こういうのもわかるのか、とびっくりしました。さすがです。

ちょっとまた意識が飛びそうです。自分が自分でなくなっていく感覚。なんか意識がぺりぺり剥がされて、乖離していくような感覚があります。ふわふわです。「わたしってわたしだったか?」みたいな感じです。ちなみに言うと「わたしとは?」という感じではないです。そのあたりは既に飛び越えてしまっており、「そもそもわたしってわたしだったかね?」という段階にまで来てしまいました。説明むずかしいです。やめます。

ちょっと死にそうです。もうやめましょう。

この文章は無意識状態で書きました。